~未だモラトリアムな日々~

This is 21th Century March (21世紀の行進曲)

スポンサーサイト

--年--月--日(--) --:--:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

落日

2006年05月03日(Wed) 21:44:39

落日を追いかけるように
届かない事分かっては
また塞ぎ込む

陽はまた昇る
止まない雨はない
出口のないトンネルはない
では、この痛みは、太陽か?雨か?トンネルか?

しとしと降る雨を
恨めしそうに見上げて
また塞ぎ込む

もし、それが本当にないのならば
一体誰が「絶望」という言葉を作ったのだ?
誰が受け継いできたのだ?
そして、この悲しみは、絶望なのか?

結局、僕は落日に向かって走っている

追いつかない事なんて
分かっているはずなのに

届く事なんてないこと
分かっているはずなのに

手に入るはずなんて
分かっているはずなのに

なのに、なのに、太陽が光っているから
僕に向かって優しい光を投げかけてくるから
僕はまだ走っている
届くかもしれないという妄想を抱きしめて
その先にある、地獄の存在に気付きながら
スポンサーサイト

連投だけれど

2006年05月03日(Wed) 14:56:04

ちょっと今、salyuさん(歌手)のサイトを見て、勇気付けられた。

「しかし何ごとも 
誰かにすごくあいたくなる事柄ならば
すごくいいことだ。
まちがいなく。」

いい言葉だね。

ふう

2006年05月03日(Wed) 14:40:44

っとまぁ、色々なことを考えましたが。ひとつひとつ、色々な方法でクリアしていくしかないんでしょうね…。

人生は長いけど、後悔しすぎるほど長くはないかな?

Runaway For Death

2006年05月01日(Mon) 23:12:06

自分が嫌いだ。外見も性格も。ときどき自分は人間の中でも最も醜くて卑怯で弱虫な人間じゃないかと思う。

生まれた事を恨みたくはないけど、生まれた意味など考えても、考えても答えなんてなかった。

よく言う、「生きたくても生きられなかった人がいる」と。よく分かる。それでも自分は「死にたい」と思う日がある。ただ辛い…。自分が弱いのはよく分かってる。それでも辛い…。

絶対の死を求めてるわけじゃない。
もし、幸せに生きられるなら。
もし、誰かを愛して生きられるなら。
もし、何かを守って生きられるなら。
もし、誰かに必要とされているなら。
もし、自分がそれに答えられる勇気があるなら。
もし、逃げ出さない度胸があるなら。
生きたい。ものすごく生きたい。

たったこれだけの事なのに…。こんな簡単で単純な事なのに…。

あぁ、でもダメだ。自分を見せるなんて出来ない。
大切な人ほどそう思う。
傷つくのが怖いから。嫌われるのが怖いから。自分がそれを疑うのが怖いから。それを感じ取るのがなにより怖いから。

誰も僕を受け止めは出来ないだろう。
孤独で生きていくのが、似合うのかもしれない。
だけど…それを僕が受け入れる事はできないだろう。
さすれば、答えが「死」になってしまう。

ただ辛い…。だけどそれを超える勇気をみつけださなくちゃならない。そんなもん、あるのか?

「生きていると言う幸福感」を味わう幸せ。

2006年04月26日(Wed) 01:42:11

「楽天的に見える。」とよく言われる俺だけど、こう見えて結構悩みは多かったり。

ちょっと前までは、よく「自分が生きてる意味」とか考えちゃったりしてて。だけど、そんなもんいくら前向きに考えたって、答えなんか決して出やしないもんじゃない。で、結局難しく考えたり、卑屈になって、自暴自棄になっちゃうことも多々あった。

「人が生きる意味」そんなもの、俺なんかに分かる訳ないと思う。
「俺がここにいる意味」そんなもの、ないんじゃないかって俺は思う。

だけどね、あまりに雄大な自然を目の当たりにしたとき、あまりに繊細な生態系に触れたとき、そんな考えが、まるで珈琲に溶けていくミルクのように薄くなっていく。

根っこが地面に伸びて、花を咲かせる。川の魚が、昆虫を食べている。人が生きる事は、それと大きな差はない…いや同じだと思う。そしてそれを感じるべきだと思う。

人間はそうやって生きていくべきだと思う。

大切なもんがあんだよ。

2006年04月24日(Mon) 22:05:44

今日は山の手線やら埼京線、銀座線も止まった。ニュースでも取り上げられているように、福知山線の脱線事故から1年、日本の鉄道はどこか爆弾を抱えたまま走っているのかもしれない。

しかし…いつから、こう忙しなくなってしまったのだろう、この国は。電車が4、5分遅れた程度で、車内には謝罪のアナウンスが流れ、乗客がイラつき始める。

いや、別にね、誰を批判しているでもなくて。クライアントや商談の時間は重要だと思うし、待ち合わせに、そうそう遅れてもいられないから。イライラするのはしょうがない部分もあるわけだ。

ただ、でもね、現代は効率性やら利便性を追求しすぎている気がする。より早く、より効率的に、不必要なものはカット。こんな感じ?俺は賛成しかねるなぁ。確かに、今の日本の世の中にはいろんなものが溢れて、便利になったけど、ホントに人は豊かになったの?幸せに近づけたの?

思えば、今の社会は「利便性や物質的な豊かさを得るために、精神的な豊かさを犠牲にしている」気がしてならない。人々は何のために、目的地まで急ぎ、深夜までパソコンに向かい、満員電車に乗り込み、人とビルの溢れる都会へ向かうのか。それによって得られるものの虚しさと、それによって失われていくものの大切さに気付きながらも、社会という波の中でかき消されていく。

改めて言うけど、別に誰を批判しているわけではなくて。もっと豊かな社会を望むよ。精神的にゆとりのある社会を。誰だってね、せかせか、イライラなんてしたくないわけで。そうさせているのは、あくまで社会であって。この構造を変えないと、ゆとりなんて出来ないじゃない。そのためにはね、ある程度の便利さはね、なくなってもいいんじゃない。それとも、一旦それに慣れたら戻れないのかな。

デパートが8時に閉まったっていいじゃない。もし、それ以降の時間を家族と過ごしたり、映画をみたり、音楽を奏でたりできるなら。
レストランが12時に閉まったっていいじゃない。デートなら、休日にゆっくりとすればいいんだから。
コンビニが閉まったっていいじゃない。もし、夜にしなくっちゃならないことがない社会なら。
そんな風に言える社会が、今の日本には必要だと思う。

大切なもんはね、お金やものだけじゃ決して手に出来なくて。心がね満たされることが一番だと、俺は思う。

小さい花

優しさの根源

2006年04月14日(Fri) 02:30:17

「優しさとは訓練で身につけるものである。」今日大学でそんな文を読んだ。司馬遼太郎の言葉である。言われてみて、初めて気付いた。優しさとはいたわり、いたわりとは思いやり、思いやりとは誰かを想うことである。誰かが辛いとき、その辛さを感じ取る訓練を積み重ねていかなければならない、と彼は言った。

僕は同時に、この訓練は、親そして教師こそによって行われるべきではないかと思った。電車の中で、子どもが座席に土足で立とうとした時「他の人が汚れるから靴を脱ぎなさい」だとか、動物に対して悪戯をした時に「この子が嫌がっているから止めなさい」という事を教える事は、まさに思いやりを育む行為そのものだと言えないだろうか?

現代はこれが不足している。子どもを叱らないのは、子どもに優しく接しているとは言えない。子どもを豊かな感性の持ち主、優しさに溢れた人格に育てる事が、親に、そして全人類に課せられた使命なのである。

子どもは無邪気だ。それゆえ、善にも悪にもなりえる。もちろん、何が「良く」て、何が「悪い」のかは人それぞれの判断基準によって異なるし、どれが正しいのかなどは分からない。

しかし、他の人間、動物、植物に対して思いやりを持つことは、言葉では到底表現できない素晴らしい何かが存在する。この素晴らしい感情は、金や地位では決して得られない。人生において、全ての人がこの感情を持ち、優しさ溢れる世界になる事を願ってやまない。

今日は、そんな事を考えました。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。